キヌガサソウ
六月、焼石岳の登山道は曇っていた。
沢沿いの残雪を渡り、チシマザサをかき分けて歩いた先に、たった一輪の「キヌガサソウ」があった。輪生する緑の葉と白い花は、大粒の雫をのせていた。
霧の中を歩きつづけて、牛の管理小屋に着いた。すぐそばにある焼石沼の位置さえわからなくなっていた。一息ついて牛止めのゲートまで登ったが、ますます深くなる霧に山頂をあきらめて小屋に戻った。
自分の耳を指さして手を横に振った登山者は「入道のバス停から歩いてきた。中沼コースに向かい、銀名水の小屋に泊まる。」と書いた。東京から来たという彼は、小屋を出て霧の中に消えた。ふと気になり外に出て、彼が去った方向を見ていた。ぼんやりと彼の姿が現われた。大柄な背を少し前屈みにして黙々と歩いている姿が、繰り返して消えては現われる。周りの景色を覆い隠す濃い霧と、牛が食んで低くなった草丈が、九合目へのルートを不確かにしていた。
彼を追いかけて小屋に戻し、筆談をした。銀名水はあきらめ、そこに泊まることを勧めて、我々は下山した。
もう十年以上も前のことを、焼石岳の「キヌガサソウ」に、会うたびに思い出している。そして今も一人で登りつづけているなら、あの頃より増えた「キヌガサソウ」を、もう一度焼石岳に見に来て欲しいと思う。
文/柴田 喜久子