東成瀬村役場

首都圏なるせ会 2018

原風景とコーヒーの香り

国の天然記念物、タイの群生地で知られる鯛ノ浦(千葉県鴨川市)から、勝浦市を経て夷隅郡夷隅町(現いすみ市)を結ぶ主要地方道(県道82号線・天津小湊夷隅線)をドライブすることに。太平洋を望む海岸沿いの国道128号から県道に入ると、いきなり景色が一変する岩高山(がんこうざん)と呼ばれるつづら折りの坂道にさしかかる。狭い道幅と急激なカーブの連続に「これが主要地方道?」と疑いたくなるが。

この坂道を過ぎたら・・・あとは、所々に点在する集落と田園風景がドライブをエスコートしてくれるのどかな地方道である。
道路を挟むお向かいの若いご夫婦。お子様が孫と同い年、引っ越し時期も同じ頃とあって、何かと親しく近所付き合いをしている。ある日、娘夫婦がいつものように挨拶を交わしていた時のことらしい。いつになく話が弾み、お向かいのご主人のお父さんが、最近、地元(勝浦市)にカフェをオープンした話になったそうである。勝浦方面にはたまに出かけることがある。機会があったらぜひ寄ってみたいと、Webアドレス(URL)を教えてもらったと言う。
Webを興味津々に開く。
「えっ、これがカフェ?」と。どこか懐かしい原風景にたたずむ小さな建物は、カフェというよりは山小屋感を抱かせる。真新しい山小屋風の画像に勝手な想像力を働かす。きっと、マスターは、おしゃれに髭を蓄えている。話上手な会話はユーモアに溢れ、
訪れる客を決して飽きさせない。それでいて、時には寡黙な男(ひと)になる。しかし、こと、コーヒーに関しては頑固なまでにこだわりを見せる。

その後、何度かお向かいと挨拶を交わす機会はあったが、こんなことを尋ねられる訳はない。
ならば、自分の足で確かめればと想像力を更に膨らませた。
目当ての「カフェ」は県道82号線沿いにある。
この道は何度か走ったことがあり、その場所もおおよそ見当がつく。
ドライブを兼ね「カフェ」を訪問することにした。

晩秋の日曜日の昼頃、急ぐこともなくのんびりと車を走らせる。「この辺かな」と注意を凝らしていると、手作りの案内板が目に付き、「カフェ」はすぐに見つけることができた。
Webそのままに、原風景に溶け込みそうな小さな建物は、期待を裏切ることなくゆるやかな時間をくれそうな安堵感があった。

少し緊張気味にドアを開ける。真っ先に目に飛び込んできたのは髭のマスターではなかった。お向かいの若いご夫婦が奥のテーブルに腰掛けている。お父さんのカフェだから何の不思議もない事。でもこのタイミング?サプライズ訪問のつもりがいきなりのネタばらしになる。
マスターに髭はなかったが、会話が多いに盛り上がったことは言うまでもなく、お向かいとの親近感は一段と深まる結果となった。

自分で乾燥させたという杉材の建物。店内に入ると、正面の重厚感溢れるスピーカーから静かな音楽が流れている。木の温もりとやさしくゆったりと流れる音楽を聞きながらコーヒーブレイクを楽しんでいただきたい。
「ここは、時間が静かに流れているんですよ」と話すマスターの言葉がとても印象的に聞こえた。

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千葉市在住S

ふるさとへの思いを!!―首都圏なるせ会30周年記念総会― 

11月3日(土)、東京・文京区「ホテル椿山荘東京」に於いて、首都圏なるせ会30周年記念総会が 開催されました。
ふるさとへの思いが繋ぐ30年。今年もたくさんの笑顔と元気に出会いました。

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beyond2020 第57回芸能大会(秋田県人会連合会)
-歌と踊りで「秋田の伝統芸能文化」を首都から発信-

たかが芸能大会、されど芸能大会である。首都圏秋田県人会連合会の芸能大会は、今年57回目を迎えた。
優に半世紀を超える連合会の伝統行事になっている。秋田民謡を中心に、舞踊、歌謡の3部門をコンクールで競う。また、自由出演、賛助出演、前年度コンクール優勝者の特別出演と多岐にわたる大会である。今年の出演者は過去最高を記録、コンクール76曲、自由24曲など110曲と。10時15分、長者の山「大合唱」をオープニングに17時まで休憩無しのロング大会と盛り上がりを見せた。プロ顔負けの歌唱力と衣装がレベルの高さを存分に魅せてくれる。特に秋田民謡は、その歌唱力に加え、県民性豊かな表現で観客を魅了する。今年の芸能大会は国が推進する「beyond2020プログラム」の認証を受けた大会となり、役員会(関係者)の力の入れ具合が例年になく熱気に満ちていた。

beyond2020とは、東京オリンピックを契機に、日本各地の文化行事を盛んにして、地域活性化に繋げようとする国の取り組みです。2020年以降を見据え、「日本の誇れる地域性豊かで多様性に富んだ文化を世界に発信しよう」というもの。この活動は「認証要件」を備えることでロゴマークを付与、統一感を持った取り組みが日本全国から展開される。

なぜ、beyond2020の申請をするのか。現在多くのふるさと会が、会員の減少に頭を痛める。特に若い層の入会がほとんどない状況に危機感すらもつ。連合会も例外ではなく、その原因は、会員の増強を図る有効打がないことにある。
beyond2020参加は、連合会の価値と存在感のアピール。現状打開を求める姿勢を失わないこと。そして、行動することによって、それらを一歩でも二歩でも前に進めていけると考えからである。

今年の大会準備は年明けから始まる。秋田県認証事務の開始にともなうbeyond2020プログラム提案の準備・申請を経て、5月2日に「日本文化の魅力を発信する事業」として芸能大会が認証された。後援が、秋田県・(一社)秋田県観光連盟・秋田魁新報社から、秋田テレビ、秋田ケーブルテレビと5件に増えた。大会の模様は、秋田ケーブルテレビと由利本荘市ケーブルテレビに放映していただくことに。また、FMはなび(大曲)と横手コミュニティFMに放送の約束をしていただいた。
プレスリリースの広がりが、会員加入のきっかけになってくれたらと期待している。

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優先席のやさしさ ~「どうぞ」のひと声を~

帰宅ラッシュには少し早い夕方の京葉線でのこと。ラッシュ前とは言え座席はいっぱい、「優先席」も空いていない。私は余程車内が空いていない限り「優先席」に座ることはないが、優先席ってなんだろうと考えさせられる光景にはしばしば出会う。やや混雑の優先席で高校生がスマホをいじる姿はそう珍しくはないし、スーツに身を包む若いビジネスマンも例外なく優先席に腰掛ける。日本の若者は「優先席対象者に優先席を譲らない」傾向があるとも言われる。優先席に限らず、好意で席を譲ろうとしたところ、心ない大人に「まだ、席を譲ってもらうほど年寄りじゃない」と怒られたとか。様々な起因があってのこととは言え、若者だけでなく、優先席は必要とされる方に「どうぞ」と気軽に譲れる席でありたい。

明らかに対象外の乗客が「優先席」に座っている。優先席付近はもとより、周りにもさして優先席を必要とする人は見当たらない。誰がどこに座ろうと咎められる状況ではないとは思いつつも、高校生や若者が平然と座っている姿を見ると少々違和感を覚える。

つり革につかまりながら、少し意地悪を込めて(?)優先席に目をやる。50前後の男性2人と80は超えていそうな女性が腰掛けている。反対側の優先席はと言うと、若いカップルと30歳ぐらいの女性が腰掛けている。観察する自分が可笑しく含み笑いをしていると、始発駅から3つほどの駅を通過しただろうか。ベビーカーを押した若いお母さんが乗車して来た。

また、意地悪心理が頭をもたげようとした矢先、80は超えていそうな(失礼)女性が「お母さん、座りなさい」と声をかけた。とても高齢とは思えないはっきりとした声で。祖母ほどの年の差であろうか、席を立ち「私は直ぐ降りるから」との勧めに戸惑うベビーカーのお母さん。
「大丈夫ですから」、やんわりとお断りするものの「ありがとうございます」と。優しさに押し切られるような実に微笑ましい光景であった。

この微笑ましい光景には、まだ続きが。今度は反対側に座る女性が声をかけたのです。もちろん、席を譲ったばかりの女性に「どうぞお座りください」と。優先席を思えば、こちらはすごく当たり前のこと・・・。
ただ、たった今席を譲ったばかり、周りの目はやや好奇心をもってこちら(優先席)に向けられている。

一瞬、間があって・・・、「ありがとうね」と。
周りの雰囲気に応えるかのように優先席に腰を掛けたのです。とても清々し空気が車内を包み込みました。

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役員会を東京湾海上で
~ちょっとおしゃれにクルージングを楽しむ~

例年、最初の役員会はいつもと趣を変えた計画をする。総会の反省と慰労を兼ね、少し議論にゆとりの持てる役員会を考える。東京圏から2時間ほどの温泉宿で一泊と。好評を博していた小旅行気分の役員会も、数年前からは日帰り温泉スポットへと様変わり。と言っても、温泉そっちのけの「談笑」に取り憑かれる役員会(笑い)となっていますが。さて、今度はどこで?事務局の本領発揮といったところである。

6月のある日、役員会&東京湾クルージングの案内通知が届いた。船上から東京湾を眺めながらランチを楽しむという企画。はたして、会議の雰囲気をつくり出すことができるだろうか、少々不安がある企画と思いつつも個室貸し切りプランに安堵する。

役員会(クルージング)当日の東京はあいにくの雨模様。港区・竹芝客船ターミナルに11時集合。最寄り駅までの交通アクセスは”ゆりかもめ”とした。新交通ゆりかもめ”竹芝駅から徒歩1分”のアクセスは充分に説得力がある。娘から教わったスマホ地図アプリ。便利なアプリのようであるが、今ひとつ上手く使いこなせていない。

ゆりかもめは、新橋(駅)からお台場を経由し豊洲(駅)を結ぶ。「ゆりかもめ線」もしくは「新交通ゆりかもめ線」という呼び名は開通当初からの愛称だそうで、その正式路線名は「東京臨海新交通臨海線」。なるほど、愛称で呼ばれる由縁が納得できる。
集合時間ぎりぎりに竹芝客船ターミナルに到着。出航は12時定刻、30分前に乗船案内との確認を済ませ、ターミナル内をぶらぶらすることに。11時30分、乗船案内に促される。ボーディングブリッジ(屋根付搭乗橋)をくぐり乗船。後ろの方から「飛行機に乗るみたいだ」という声が聞こえてきた。ホテルを思わせる船内を横目に個室へ案内される。出航まで20分余り、このまま優雅なひとときに浸りたい気分ではあるが、そこは心を鬼にして役員会モードに切り替える。

船が竹芝桟橋を離れるとまもなくレインボーブリッジが見えてくる。雨空ではあるが、間近に、しかもローアングルのレインボーブリッジに圧巻される。“船上からの東京湾”を楽しみながら羽田空港沖にさしかかる。ちょっと贅沢なランチにほど好い酒。
ほろ酔い気分に誘われるように甲板に上がると、それまでこらえていた雨空が我慢しきれなくなってきたのか、小さな雨粒を落としてきた。
この季節ならでは・・・雨にかすむ東京湾がその風情を感じさせてくれる。ひとときの船旅が記憶に刻まれる役員会を演出してくれた。

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高橋よしひろさんが、JR新橋駅前で「特殊詐欺根絶」の呼びかけを。
~よしひろさんの頑張りに元気をもらっています~

6月25日JR新橋駅前広場(通称SL広場)に於いて、警視庁愛宕警察署が管内金融機関等と合同で「特殊詐欺根絶」キャンペーンを実施。ふるさと出身の漫画家・高橋よしひろさんがゲストとして参加しました。よしひろさんは、言わずと知れた「銀牙-流れ星銀-」の作者。犬を主人公にした多くの作品が、人間と犬(動物)の情愛を豊かに生み出し、ストーリー全体を貫く正義と信頼の絆を読む人の心に深く響かせてくれる。
その正義と信頼に・・・つい涙してしまう。

よしひろさんがキャンペーン・・・との情報に、何はともあれJR新橋駅へと。
キャンペーン当日は32度超の真夏日、うだるような暑さのなか、制服(警察官)を身に纏ったよしひろさん。
今年は戌年、オリジナルイラスト(銀と仲間たち)のクリアファイルを配り、
振り込め詐欺などの被害に遭わないようにと注意を呼びかけていました。

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文化の杜(上野)に秋田ゆかりの歴史を訪ねる。

「上野寛永寺で湯沢出身の了翁禅師御祥月忌が開かれます。撮影をお願いできないでしょうか」
「《仮称:首都圏の秋田探訪》の企画立案をしている。秋田ケーブルテレビを活用させていただき、首都圏の「秋田の歴史」紹介と併せて連合会や加盟団体をアピールすることができたらと」・・・。
首都圏秋田県人会(連合会)事務局からのメールを受信した。

了翁禅師(りょうおうぜんじ)? きっと、名のある僧侶だろうなとは思うが知識がない。
ウィキペディアを検索する。了翁道覚禅師は江戸時代初期、教育文化、社会福祉、公共事業など各種の社会事業に貢献した黄檗宗(おうばく
しゅう)の僧。出羽国雄勝郡八幡村(現湯沢市幡野)に生まれる。幼少時代は恵まれない生活を過ごし11歳のときに真言寺院に預けられたと
ある。そして、12歳のときに雄勝郡岩井川村の曹洞宗「長渓山龍泉寺」に小僧として預けられたと。2年間、龍泉寺に起居、剃髪して仏門に
入ったとされる。その龍泉寺に「了翁禅師剃髪之所」と刻された記念碑が残っているという。

了翁道覚禅師の多大な功績は文献等で学んでいただければと思いますが。了翁の修行は極めて激烈なもの。その荒行がたたり、痛み苦しんでいた時期に、夢枕に立った明の高僧・黙子如定から霊薬の製法を授けられた。夢の通りに調合した薬を患部に塗ると、またたく間に痛みが鎮まったとのこと。この薬は「錦袋円(きんたいえん)」と名付けられ、万能薬として傷病に苦しむ多くの人を救ったとされる。また、錦袋円は飛ぶように売れ、その売上金をもとに了翁は全国に教育文科施設を拡げた。日本初の図書館(一般公開)を開設した名僧であり、一個人が多数の公開図書館を開設した例は世界でも他にないと言われる。

了翁禅師御祥月忌は毎年、命日(5月22日)に上野寛永寺で開かれる。当日は午後2時の法要にゆとりを持て出かける。JR上野公園口改札を出る。初夏を思わせる強い日差しに、思わずコンビニに飛び込み日焼け止めを買い寛永寺に向かう。東京国立博物館を始め、国立科学博物館、国立西洋美術館、上野の森美術館など、上野は文化芸術の薫り高い施設が多く存在する。また、上野東照宮や寛永寺など、歴史を感じる国内有数の観光スポットでもある。

文化芸術・史跡を横目で眺めながら寛永寺山門に辿り着いた。山門に拝礼しビデオ撮影の許可を願いに寺務所に向かう。若い僧侶が「大丈夫だと思いますが・・・」と応対してくれたが、結論は寛永寺だけの許可にとどまらず、事前に許可願いを申し出ていただきたいとのこと。ビデ
オ撮影は断念し法要を取材することにした。

午後1時頃、「了翁堂」前で、若い僧侶たちが法要準備を始める。10分ほど前になると、用意されている椅子に参拝の方々が腰掛け始めた。
それから間もなく法要が執り行われた。
首都圏湯沢会の方が何人かお見えになっている。湯沢からも「お出でになるんだよ」と聞いた。今度、帰郷したら龍泉寺にある記念碑に拝礼したいと思う。

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「首都圏在住秋田人100人の物語」が出版されました。
―首都圏で力強く生きて来たふるさとをこよなく愛する秋田人たちの文集です―

故郷を離れて上京し、苦労を重ねながらそれぞれの人生を切り開いてきた県内出身者の手記を集めた「首都圏在住秋田人100人の物語」が出版された。編集したのは、東京で秋田の文化を語り合う活動をしてきた県人らでつくる「秋
田ひぇばなの会」。
昭和、平成の時代を生き抜いた県人たちの半生記からは、コツコツと前を向いて歩んできた秋田人の実直さと故郷への熱い思いが伝わってくる。(毎日新聞Webから)

また、NHKのニュース番組「首都圏ネットワーク」もその出版模様を次のように伝えた。
「金の卵の半生つづった文集」と称し、集団就職などで秋田県から首都圏に出てきた117人の半生が記されている。かつて「金の卵」とされた人たちが、その人生を書き残して伝えることが大事だと・・・。

昨年の広報6月号でご紹介した「首都圏在住秋田人100人の物語(仮称)」が出版され半年に至る。秋田人の故郷への熱い思いが寄稿者それぞれの生き方と重なり熱くリアルに伝わってくる。
「金の卵」・・・「集団就職」・・・
高度経済成長期を支える若い労働力が、地方から東京(首都圏)に集中した時代背景を象徴する。ホームシックという言葉も聞こえてきた。就職列車は「希望」に満ちた多くの若者を乗せて都会に向かったはずなのに。
ともすると、この時代をネガティブに捉えるきらいがあるが。
高速道路や新幹線など交通網の発達は故郷をとても近い存在にした。その昔、故郷を遠くに感じた。故郷(親元)を離れ見知らぬ土地での生活に寂しさや不安を感じない少年少女が何処にいるでしょうか。少年少女たちの心は、そのまま子を送り出す親の心でもあったと思う。

「秋田人100人の物語」は117の手記がまとめられている。いたるところに故郷の情景をのぞかせる多種多様な秋田人117人の物語である。幼い頃の郷愁、多感な時期を共有した友人たちのこと。家族のこと。楽しかったり、悔しがったりしたこと。そして、都会に出てからのこと。苦労を重ねながらの人生(先の論評)というよりは、苦労を苦労と思わせない前向きな人生観を感じる物語が多い。苦しくて立ち止まりたい。そんな時、そっと背中を押してくれるのがいつも故郷であったと。

先日友人が思わぬことを。NHKが秋田県出身者の本を紹介していたけど・・・「知っている?」と聞いてきた。
「秋田人100人の物語」は、秋田人と言わずに多くの方々に読んで欲しい本です。

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震災から7年 再び塩屋岬を訪れて

重苦しい東日本大震災2011年に還暦を迎えた同級生たち。
その6月の還暦同級会を機に、もう少し集まる機会を多くと2年ごとを約束。故郷と首都圏でその幹事役を交互に分担しあうことにした。還暦同級会から数え今回が4度目の集まりとなる。うち3度が震災の被災地と重なる。強く意識をするかしないを問わず、被災地への思いを断ち切らないことが大事だと思う。衝撃的な津波の現実は決して消えることがないから。

「小名浜で同級会」とメールが入る。震災から3年目の春に訪れた福島県いわき市。美空ひばり歌碑「みだれ髪」で知られる塩屋岬に寄ることに。ホテルを後に、車中は前夜の宴会を引きずるかのような笑いの渦に包まれていたが。
海岸が近づくにつれ口数が少なくなる。予想していたこととは言え、一変した目前の光景に声が出ないほどの衝撃を受けた。
無残に残る、剥き出しのコンクリート(基礎)が津波の凄さを充分過ぎるぐらい伝えた。

あれから4年・・・塩屋岬を再び訪れた。海岸線の防潮堤工事が完成している。所々に工事用の三角コーンが目についたが、新設された道路を一般の車が走ることができた。日曜日の午後であったが車はほとんど走っていなかった。この
地区(豊間・薄磯)は、住宅の8割近くが津波による全壊と記憶する。完全に生活機能を失った街が、その復興ビジョンを「街のあった場所に街を再生させる」と掲げている。再生の鍵を握る防潮堤は「住民生活と共存」できる目線になっていると感じられた。川沿いにある土手の斜面に植栽を施し、防災を緑地公園と一体化させるイメージ、威圧感がなく緑地から海を見渡せる景観も保たれていた。

街づくりはこれから急速に進展するであろうが。区画された更地に住宅が建ち並ぶ日はそう遠くはないと思いつつも、震災から7年の歳月が復興のもどかしさを語りかけているような気がした。

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振り向かぬ父(後編)

翌日から父の顔つきが変わり、水の引いた田を黙々と片付け始めた。5年生の私と2年生の妹に、田に流れ込んだ石を拾って河原に捨てて来るようにと言った。畚に石を集めて、棒に通して二人で担いで河原まで捨てに行く。ところが、幼い哀しさ、畚に入れる石の量の加減が判らない。少量の時は楽に運べるが、多すぎると子供の力では持ち上がらない。せっかく集めた石を畚から出す。この作業を一ケ月も続けることになる。

たまに嫌になり、勉強が・・・宿題が・・・と訴えても父の応えは決まっていた。「まんま食えなくなっても良いのか」。小学生にこれ以上強烈な応えはないと思う。8人兄妹の7番目の私は虚弱体質に近い身体の弱い子(それを理由にしているが、単なる「なまけ者」)で、きつい事や重労働には自分から手を出さなかった。父はそれを承知でこの作業を言いつけた。

学校の授業が終われば直ぐに帰り田に行く。
放課後に野球に興じることも、友と遊ぶこともなく黙々と石を拾い続ける。肩が痛い・・・手が痛い・・・と不平不満を並べる私の傍で妹は無言で作業を続ける日々が続く。テストを持ち帰った夜、晩酌をしていた父が、「テストの点・・・なんじだった?」と。「かわらなかった・・・なんで?」「石拾いしたから・・・点数が上がったかな?と思って」。
日頃、勉強しろとも言わないし、石拾いに飽きた私の勉強に首を振った父から言われる言葉ではない。こんなに食えない父であったとは。水に浸かった田を見て肩を震わせていたのは父の亡霊だったのだろうか。しかし、父の判断に託けた不平を続けた私らの作業は実を結んだ。翌春、風に緑の苗をなびかせる早苗田が復活したのだ。
秋の収穫が済んだ日、父が私と妹に、「お前たちが良く手伝ってくれたから、田が作れるし米も穫れた」「みんなで頑張れば難しいと思ったこともできるもんだ・・・と。判った」。そう言うと二人の頭を撫でてくれた。

後年、父とその話をしたことがある。布団の中で、濁流が走り流木や土砂の流れ込んだ田を見て諦めようと思ったという。しかし、50歳を過ぎた今から、農業以外で家族を支えるのは至難のこと。熟慮の末に、「田を復興する」ことに発想を転換したと。その決意を表したのが、私と妹に言いつけた“石拾い”だったと。
半世紀、いや、60年も前の話である。中学を卒業後、私は自立のために親元を離れた。先にも書いた虚弱体質に近い私には、村内や近隣の町村にも勤めるような仕事はなく、農業や林業以外の産業はない。経済の高度成長期と言われて、中卒の子たちが“金の卵”と言われた最終の頃の就職列車に乗った。村に残る同級生は長男と数人。自立するには都会に憧れ・・・など言う甘さはない。「就職する、家を離れる」と、出発の一週間前に父に告げた。当日の朝餉は家族が黙々とめしを口に運んでいた。

「おどう・・・行くからな・・・あんまり飲むなよ」
背を向けたまま肩を震わせ・・・
父は振り向かなかった。昨今の大雨被害の報道に、その時の父の背が浮かんでくる。
して・・・振り向かなかった震える肩も。

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振り向かぬ父(前編)

近年の新聞紙面に、「異常気象・台風の伴う豪雨・ゲリラ豪雨・土砂災害・記録的なドカ雪」
「上空の気象状態が不安定のため局地的に激しい雨」という文字を目にしたり、耳にすることが多くなった。テレビで発言する知識人と言われる人達は、原因を「地球温暖化」と言うが、その温暖化の解決方法を示すことなく将来への
不安や杞憂のみを煽っている。「地形や水脈を無視しての乱開発と、安価な輸入木材の流通により採算が取れないことから山林の手入れが行き届かず、森が保水量を保てなくなっていることが要因と思われる」と。襲来した台風に被災
して、忘れ得ぬ記憶を持つ方は大勢いられると思います。
昭和の三大台風と言われる室戸台風(昭和9年9月)、枕崎台風(昭和20年9月)、伊勢湾台風(昭和34年9月)の甚大な被害の状況が記録に残り語り継がれている。

そろそろ・・・表題の「父」の姿を現さないと。
台風のみならず、忘れられぬ記憶に洞爺丸台風がある。昭和29年9月26日未明に鹿児島県の大隅半島に上陸、九州を75キロ~80キロの速さで斜めに通過し、さらに中国地方を横断して日本海を100キロで北東に進み、午後9時には北海道西部に達している。台風としては稀にみる速さであり、この間、風速58.8メートルを記録している。当時の予報技術では台風の移動速度に対処できずに、自然の破壊力に成す術無く蹂躙された。この台風に青函連絡船・洞爺丸のみならず、四隻の連絡船が転覆・沈没させられている。稀代の「風台風」と言われた15号、記録に因ると強風の被害は全国に甚大な被害を与えたが、雨に因る被害は殆どなかったとの記録がある。

ところがである。まさしく「天の悪戯」ならば・・・。天を恨みたくなるような現実に襲われた。殆ど水害を起こさなかった「風台風」が生家の集落の上流に未曽有と言われる豪雨をもたらした。生家の集落までの上流は深い谷のため
水害の恐れはないと思っていた。住宅地はそうだが一箇所、川の水面から3メートル位の高さに父の耕作する田があった。父に言われて様子を見に行った私は、その状況を見て家に駆け戻る。田の川上に堤防というには・・・オソマツな土手を訳なく乗り越えた濁流が収穫間近な田を呑み込んでいた。

「家の下の田に水が入っている」。それを聞くと父も走り出した。田の状況を見ている父の背中が震えている。「おどう」・・・。父は振り向かなかった。「2、3日したら刈ろうと思っていだに」・・・。呻くように、絞り出し、家に帰ると布団にもぐり込んでしまった。父の行動を女々しいと言う勿れ、収穫を目の前にした田が濁流に席捲されたのである。

農家にとって作物の収穫ができないことは「痛手」などでは済まない。生活の糧を失うことは基より、濁流と土砂に荒らされた田を作付けが出来るように復活させるには多大な労力と時間を要する。まさに、泣きっ面に蜂。それほどに難しい。天候不順に因る不作は翌年に期待すればいいのだが。現代のような農政事情なら、即、耕作放棄が必定だろう。
この水害は平成3年に編纂された「東成瀬村郷土誌」には記録されていない。

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創立30周年を迎える・・・ふるさと思う「強い絆」に支えられて

首都圏なるせ会は平成元年に設立。創立総会を東京上野・タカラホテルで、第2回総会を新宿・東京大飯店で開催している。
第3回総会からは、会場を東京・江東区砂町文化センターに移す。第15回総会(虎ノ門パストラル)、第21回総会(椿山荘)、第25回総会(ホテル椿山荘東京)を別とし、江東区砂町文化センターでの開催が臨時総会を含め実に25回を数える。優に200人を超える参加者と、納豆汁が楽しめる厨房を備える施設となると、東京広しといえどもそうは見つからない。江東区砂町文化センターにこだわる理由である。

砂町文化センターこだわりは、すなわち、「納豆汁」へのこだわりでもある。体の芯まで温まる「納豆汁」を囲んでふる里を偲ぶ。遠い昔話になるが、確か、納豆汁は年越しの膳に上がるものであり、正月に食べる特別なものであったような。束ねた稲わら(つすこ?)に包み込んだ自家製の納豆を懸命にすりつぶした思いがある。

車社会の進歩は、近年における雪国の生活を大きく変えた。半年近くも雪に閉ざされる厳しいふる里の冬。かつての雪国の暮らしが忘れ去られそうではあるが。納豆汁に雪国の郷愁が重なる。

当会の目的は、会員相互の親睦・扶助を図り、ふるさと東成瀬村の発展に寄与することとしている。
この29年間、創立翌年の「ふるさと訪問」を始め、「ふるさと探勝の旅」「赤滝まつり参加」「ふるさとさくら交流会」等々の親睦行事。「ふるさとパック」「ふるさと米購入事業」等、ふるさと産物の普及と宣伝。なるせっ子を応援する「ふるさと基金」の創設や、ふるさと納税、東成瀬村応援団の加入促進等の活動を行ってきた。創立30周年を迎えるにあたり、ことさら強く、「ふるさと思う」会員の絆を感じている。この絆が会を継続・発展させてきた原動力であると確信する。だが、29年の年月は課題も与えてくれた。高齢化の波はふるさと会も例外ではなく、会員の平均年齢は年々上昇の一途を辿り、会員の数も減少しているのが現状である。若い世代の加入は喉から手が出るほど欲するが、会員も会も長寿になることはとても喜ばしいことである。さりとて、現状に甘んじる
ことは「会の継続」に少なからぬ影響を及ぼすと考える。とにかく明るい。ふる里の話をする笑顔がすごく輝く。

会員を信頼し、気負わず、感謝の心を忘れずに30周年を迎えたいと思う。

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