東成瀬村役場

首都圏なるせ会 2019

人生を変えた一本のビデオ(後)

次の日から、高校に入学するための準備に取り掛かった。だが、今まで全く勉強をしてこなかった彼にとって、何から何まで分からないことだらけだった。仕方なく小学3年の「九九」の練習から始め、国語と算数の「ドリル」を勉強した。遙かな道程である。

24歳の春、県立高校の定時制課程に入学した。志望大学は、「物理学部」のある某県の最難関、日本有数の難関大学の「国立大学理学部物理学科」に決めたのである。とは言え、定時制高校の先生方も、いくら真面目に勉強に取り組む決意をしたとは言え、24歳の夜間高校一年生の「無謀な決意」を哀れに思えてならなかった。そんな先生方の思惑とは裏腹に、山田青年の勉強に火が点き、まもなく燎原の火となった。朝5時に起き出勤時間ギリギリまで勉強し、建設会社の昼休み時間にはコンビニ弁当を食べながら英単語を覚えた。肉体仕事で疲れたはずの身も心も夜間高校に通える喜びでたちまち蘇生した。夜間高校で熱心に授業を受けた。僅かの休み時間も先生方に質問攻めをした。帰宅後もすぐ勉強に
取り掛かり午前零時まで机に向かった。まさに寸暇を惜しんでの勉強だった。

やがて職員室では先生方が、その打ち込みように「ありゃ、山田君は本物だな」と、山田青年を褒め称える言葉が飛び交い始めた。それとともに、先生方も積極的に熱い支援をしてくれるようになった。さらに勉強に拍車がかかった。定時制高校の四年、志望大学を受験した。センター試験の成績も8割以上採っていた。その後の本試験もかなりの手応えを感じた。だが、合格については不安だらけだった。

3月、合格発表の日。レタックスが届いた。レタックスを確認するのが怖かった。
自分の受験番号と氏名がくっきりと印字されてあった。しかし、場合によると、不合格の番号かもしれないと思いレタックスと大学受験要綱を一字一句、何度も確認した。

27歳の春、山田青年は「国立大学理学部物理学科」に入学した。同大学でも熱心に勉強し大学院に進んだ。山田青年の表情は、かつての小・中学校から20歳までの、青白く沈んだ表情は霧散し、自信に満ちて明るく輝いていた。山田青年の人生を変えた「一本のビデオ」。山田青年は、それを貸してくれた建設会社の事務員と大学院在学中に結婚した。

研究者への道も開かれてはいたが、山田青年は、自ら歩んできた暗い長いトンネルのような小・中学校時代を考え、落ちこぼれの落ちこぼれであった自分でさえ、何かのきっかけを掴めれば、必ず立ち直ることができる実体験をした。定時制高校に通うことを認めてくれた建設会社の社長や社員の方々、定時制高校の情熱ある先生方。大学や大学院で「学問」の喜びを教えてくれた先生方のことが次々に浮かんできた。山田青年は、迷うことなく教職の道を歩もうと決意したのだった。

私が電話取材をしたとき、山田先生は38歳になっていた。 

佐藤 清助

人生を変えた一本のビデオ(中)

だが、彼の健気な思いとは裏腹に、彼が16歳になったとき、よき理解者であった母が急死したのであった。我が子が一人前になることを唯一の楽しみに生きていた母だった。山田少年の両親は学歴もなく良い仕事にも就けず、ようやく食べていけるだけの収入だった。母は、昼も夜も悪い労働条件の下で働いていた。疲労や睡眠不足から肉体が蝕まれ、病魔に襲われ死期を早めたのだった。あまりにも早く、別世界に旅立った母を思い、泣き崩れる日々が続いた。これでは、亡くなった母が浮かばれるはずがないと、気持ちを切り替えようとした矢先、事もあろうに、今度は父が亡くなったのである。

山田少年の父は、配偶者を失った失意のために、心がささくれ立ち、持病で止められていたはずの酒を浴びるほど飲んだ。毎日の生活が荒みに荒んだ。こんな生活が体に良いはずがなく、母の後を追うようにして亡くなった。山田少年が17歳のときである。仕事の帰り、道を行き交う人々が、楽しげに爽やかに笑っている姿が、自分には異次元な光景に思えてならなかった。山田少年は、心の支えと働くことの意義を失い、この年に大工の仕事を辞めてしまった。

がらんとした空き家同然の破屋に住み、青白い顔で出入りする山田少年を近所の人々は、同情する気持ちは持っていたものの、無職でブラブラしている姿を見るにつけ「何か、大それたことをしでかすのではないか」と不気味に思い、警戒の色を強めていった。

彼が20歳になったとき、食うために地元の建設会社の作業員の仕事をすることになった。もともと、温和で真面目な性格のためか、他の作業員の仕事ぶりとは格段に違っていた。指示された仕事は、周囲の人が感心するほどキチンと処理し仕上げていった。

山田青年が23歳になったとき、転機が訪れた。彼の真面目な仕事ぶりを見ていた建設会社の女性事務員が、何かを感じていたのか「見たら、きっとためになるよ」といって、一本のビデオを貸してくれた。

何か、面白い映画かなと思った山田青年は、自宅に帰ってそのビデオを見た。ところが内容は、「光は波か、粒か」というテレビから収録した「アインシュタイン」の理論に関するものだった。最初は、女性事務員にからかわれたと思ったが、まるで吸い込まれるように90分の画像を見た。ユダヤ人のためにナチスの迫害を受け、命からがらアメリカに逃れて研究を続けるアインシュタインの研究姿勢に、何かしら、言葉では言い表すことができない大きな感動を受けた。もう一度ビデオを見た。すると山田青年は、素朴に、このような内容の勉強をしたくてたまらない程の気持ちになった。

本屋で調べたら「物理学」という学問であることが分かった。物理学を勉強するためには大学に行かなければならない。だが、自分の学歴は、義務教育の中卒のみである。一般的に考えたら、山田青年の思いと行動は、実に「滑稽」だったに違いない。

佐藤 清助

人生を変えた一本のビデオ(前)

今から、十数年前のある朝のこと。塾教師退任後、家庭教師派遣業の会社を経営していた私は、いつものように出勤の支度をしていた。出勤時間の確認程度に何の気なしに点けっ放しにしていたテレビ画面に、思わず目が釘付けになった。某県の私立高校で数学を教えている山田先生の授業風景だった。「なかなか活気のあるいい授業だな・・・」

私がひとりで納得していると、番組も終わりに近くなり、ゲストの人たちから称賛の声が上がった。高校名を急いでメモし、職場に到着するなり、即、電話取材した。
山田先生は授業中であったが、このような取材は全て広報担当の責任者が応じているとのことであった。広報担当の先生は、山田先生に関する様々なエピソードを詳しく教えてくれた。これまで、私と同じような取材があるとみえて、快く、かなり流暢に時間を割いて応じてくれた。

山田少年は某県に生まれた。両親の愛情を受けてはいたが、すくすく育ったというわけではなかった。あまりに精神も肉体もひ弱だった。

小学校に入学してからも、何事においても自信がなく、勉強も運動もからっきしダメだった。誰と話すことも遊ぶこともなく、学校に行き教室の自席につき教室の気まずい空気を吸って、ただ帰るだけの毎日だった。出口の見えない暗く長いトンネルがどこまでも続くような学校生活だった。
それでも、平穏に下校できることは少なかった。

クラスの同級生や上級生の悪たれからイジメぬかれた。ちょっと、ぼんやりしておれば、「オリャー」という掛け声とともに、いきなり背中を蹴られケガをすることもあった。休み時間に運動場に出ようとすれば、運動靴に画鋲まで入れられることがあった。びっくりし、あまりの痛さに悲鳴を上げると、悪たれどもはそれが面白く、
ゲラゲラと笑い転げた。いざ、勉強時間が始まりノートや教科書をカバンから出そうとしても、ことごとくどこかに隠されてしまった。このような学校生活であったから、成績は言うまでもなくどん尻だった。

地元の中学に入学してからも、山田少年に対するイジメは更にエスカレートした。
両親はうすうす感じて、我が子に尋ねることがあった。山田少年は、イジメについて一切話すことはなかった。成績は、正真正銘の「オール1」である。義務教育であるから、このような成績でも中学を卒業することができた。

あまりにも不甲斐ない我が子の将来を案じた両親は、何か、手に職を就けさせてやらなければと考えた。考え抜いた末「大工」にさせることにした。だが、実社会の波は予想外に荒々しかった。

何事においても、自信がなく消極的でモタついている山田少年に対して、大工の棟梁は容赦しなかった。即、注意されビンタが飛んだ。言い訳一つできず、ただ耐えるだけだった。それでも山田少年は、いつかは腕の良い大工になろうと思っていた。

佐藤 清助

上野散策と老舗ランチ~令和元年初の役員会は上野で~

令和元年初の役員会を6月29日に上野で開催。かつて上野駅は東北の玄関口と言われた。当時上京した人々の心に、「上野駅」がどう刻み込まれているかは別としても、その頃の上野駅は、まちがいなく故郷とつながっていた。「ああ上野駅」の歌碑が不忍口に残っているそうであるが私は見たことがな
い。今、足を止める人がどれほどいることだろうか。とは言え、上野駅は、今でも郷愁を誘う空気を感じさせてくれる。

上野駅公園口10時集合。上野公園ぶらり散策。正午からは役員会と老舗ランチ懇親会。少し時間にゆとりを持って集合場所に向かうと、事務局長が既に改札付近に待機していた。上野散策は10人位と聞いていたが、みなさんまだ到着していない様子。雨模様ではあるが、土曜日とあって改札付近は混雑している。その邪魔にならないように散策マップを広げ「どこにしようか」と思案をしていると、「○○さんが改札の外に・・・」と。待ち人を見つけたらしく、事務局長は改札の外で待つことに。私はもう少しここで待つことにした。それから10分ほど経っただろうか。どうやら、ゆとりを持っての集合は私ではなかったようである。改札の外でみなさんが待っていた。

何とか持ち堪えていた梅雨空だったが、我慢しきれなくなったとみえて弱い雨粒を落としてきた。上野散策は自由行動。どこにするか決めていなかった私は、「東京国立博物館」という声に便乗することにした。
東京国立博物館は1872年(明治5年)に創設された、日本最古の博物館である。(中略)国宝89件、重要文化財6 4 3 件を含む収蔵品の総数は117,460件。これとは別に、国宝55件、重要文化財260件を含む総数3,109件の寄託品を収蔵している。 (Wikipedia)

博物館鑑賞グループは4人。公園口改札からゆっくりと歩く。近年アジア系の観光客が多くなったといわれる上野。チケット売り場に着くと30人ほどの列ができている。なるほど、列の半数近くがアジア系観光客である。案内も英語、中国語、韓国語と対応に余念がない。入館料は一般620円、高校生以下及び
満18歳未満、満70歳以上は無料という。1時間余りの駆け足鑑賞であったがとても満足できた。今度はじっくりと時間をかけての思いを残し国立博物館を出る。

老舗ランチは銀座アスター上野店。集合時にもらった案内図を頼りにランチ会場に向かう。私たちが店に入ると、他のみなさん方はもう着席している。役員会は時間どおり始める。平日総会・会報特別号・ふるさと訪問ツアー等について主に意見を交わした。さて懇親会はというと、老舗の味を楽しみながらの・・・。
あっという間のできごとでした。

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神田で「故郷自慢プレゼン会」東成瀬村・佐藤時子さんが『仙人の郷』プレゼンを

首都圏には故郷を想う人たちがたくさんおります。この人たちの熱い力を結集すれば、もう少し地
方の力になれるのでは・・・。私たちは故郷のためにどんな役に立てるのでしょうか。まずは故郷の良さを自慢し、知ってもらうことから始めましょう。『全国うまいもの交流サロン「なみへい」HPから抜粋』「なみへい故郷自慢プレゼン会」が5月29日、神田の「なみへい」で開催され、参加者のみなさんと故郷への熱い想いを共有するとても有意義な時間を過ごした。

たまたま目にしたSNSの投稿。「なみへい故郷自慢プレゼン会」の投稿アップに我が目を疑う。
単に「故郷自慢」であるならばさして騒ぐことでもないが、この自慢に「東成瀬村」が加わるとなると、これは少々穏やかではなくなる。プレゼンターは秋田県東成瀬村出身の佐藤時子さんと他に2人。「晩ご飯」は「東成瀬村のプレゼンをする佐藤さんに秋田県のものをお願いしました」と。「晩ご飯」とはプレゼンの後に用意される「食事交流会」のメイン料理。東成瀬のプレゼンに郷土の食材料理とくれば、もう「なるせじん」として黙ってはいられなくなる。「佐藤さんはどんな人?」「東成瀬の何所?」「歳は?」等々と勝手な思いをめぐらす。兎にも角にもイベントが気になり、気づいたら参加の申込みをしていた。

当日は開会少し前に「なみへい」に入る。店内を見渡すと若い人たちが多い。故郷自慢の年齢層を己の世代に重ねていた。そのせいなのだろうか、少し意外だった。
「故郷自慢」の持ち時間は20分、東成瀬村、盛岡市、長野市の順番で3名のプレゼンターが期待どおりのプレゼンをしてくれた。佐藤さんのタイトルは『仙人の郷~東成瀬村~』。田子内の実家から撮ったという「虹が架かる村」がスクリーンに映し出される。平成の大合併では、村民アンケートの結果をふまえ「合併しない道を選んだ村です」と紹介。さらに、村のシンボル・仙人に想いを寄せる。村に入るとすぐに橋(田子内大橋)がある。その欄干に「4人の仙人」がいるんですと。故郷へ帰ると、いつも、「帰ってきたよ」とそこを通る。仙人たちは、その表情、髭、立ち姿にちょっとずつ個性の違いを見せてくれる。「とても大好きです」と声を弾ませた。

栗駒山系の豊かな自然。3つの湧き水(栗駒仙人水/五郎兵衛清水/蛭川清水)と両極端な2つの温泉(強酸性の須川温泉/アルカリ性硫黄のやまゆり温泉)。とまと、仙人米、赤べごなど豊富な食材。教育、星空、神社とその神々の彫刻、ダム等々と次々に映し出される故郷に、プレゼンの主役(話し手)がみごとな調和を魅せてくれた。

パソコンが苦手という佐藤さん。ある大学ゼミの学生さんたちが資料づくりに協力してくれたと。
その学生さんたちが応援に駆けつけた。店内を見渡した・・・「意外」に納得する。<故郷愛を強く感じる。東成瀬村はありのままで良い。変わってほしくない。直接お話を聞いて興味を持てた。合宿を行ってみたい。>学生たちの東成瀬感であるという。
余韻を抱えての「晩ご飯」は、だまこ鍋をメインに、わらび・柿漬大根・蕗の煮付けの三点盛り。鍋
をつつきながら、故郷自慢はセカンドステージでも盛り上がっていた。

toko

大傘桜と「東雲の丘(しののめのおか)」

桜の季節は人々の心をうきうきとさせる。そんな春に、浮かれそうなある日の朝刊に一本の「桜の樹」が紹介された。見事なまでに枝張りを魅せる桜。「大傘桜」という見出しのインパクトにしばらく見入ってしまった。大傘桜は、樹齢(推定)80年のソメイヨシノで、平成26年に閉校した成田市立東小学校の校庭にある。
通常ソメイヨシノは群で植えるそうだが、大傘桜は一本のみ植えられている。単木で傘型のソメイヨシノ。しかも、枝をこれほど大きく広げた樹形は非常に珍しいとのことである。これはぜひ見てみたい。大傘桜に惹かれるように週末に出かけることにした。

閉校の成田市立東小学校は成田空港に隣接する。空港方面には何度か車で行ったことがあり凡そ見当はつく。良く晴れた土曜日、ドライブ気分で成田空港を目指す。目的地には難なく到着するも、記事の影響あってか駐車場は予想どおりの満車。駐車係の対応がどことなくぎこちなく感じるのは気のせいなのか。思わぬ鑑賞客に「駆り出されたのかな」と勝手に含み笑いをしながら、さて、「どこに駐めようか」考えていると、係員が、「この先に駐車場がありますよ」と教えてくれた。飛行機と空港が見える無料駐車場があるという。300メートルほど走ると、「東雲の丘」パーキングの案内表示があった。
「東雲の丘?」、一瞬戸惑うが、場内に入るとその戸惑いが解けた。

この名称は広く地域の皆さまからも親しんでもらえる施設にしたいとの想いを込めて、成田市立東小学校の子どもたちが考えてくれました。自分の学び舎である東小学校の「東」にちなんで「東雲の丘」と名付けられました。
*東雲:夜が明けようとして東の空が明るくなることを意味します。(駐車場内の説明表示板から)

駐車場のほぼ中央にある階段から「東雲の丘」(展望台)に上ることができる。説明表示板は階段のわきにある。大傘桜と東雲の丘と成田市立東小学校。大傘桜から拡がる展開に誘われるように「東雲の丘」に上る。もともとは滑走路の「防音堤」だったという展望台、30分ほどの間に5、6機の旅客機が降りてきた。間近で、迫力ある着陸シーンをしばし楽しむことができた。

思いもしなかった楽しみが「大傘桜」に更なる期待感を膨らます。その「大傘桜」。期待を全く裏切らない「美しい樹形」に魅せられた。成田空港に近く、開港に伴う移転や少子化の影響もあり閉校を余儀なくされた小学校。子供たちの声が聞こえなくなっても、季節になると花を咲かせる。そう思うと、妙に、寂しさを感じる風景でもあった。

toko

首都一望!! 東京スカイツリー

JR京葉線の車窓から東京スカイツリーが良く見える。なかでも新浦安から舞浜にかけての眺めは、そのほぼ全形が楽しめる。高さ634mは、展望台のある電波塔としては世界一と言う。一度は上って見たい。車窓の景色はその奇心を充分過ぎるほど掻きたてる。

ある日、娘夫婦が「スカイツリーの入場券があるから行ってきたら」と。自分たちはもう行ったから、「たまには二人で出かけたら」と言う。気持ちを素直に受けとり混雑の少ない平日に出かけることにした。
当日、通勤ラッシュを避けるように10時過ぎに自宅を出る。あいにくの小雨にやや気分が滅入る。天気予報は雨から曇りと回復の兆しだが、当初からあてにはしていない。大荒れでもない限り、日にちの変更は考えに入れず、とにかく未知の高さに挑むと決め込んでいた。

いつもなら東京行きは京葉線となるところだが、千葉方面からスカイツリーへのアクセスはJR錦糸町駅が最良らしい。ならばと、千葉駅からJR総武快速に乗る。平日の昼にしては「少し混んでいるかな」と車内を見回していると、「春休みだからね」と妻が小声で言う。
西船橋を過ぎる頃からスカイツリーが見えてくる。錦糸町駅から東京メトロに乗り換え「押上(スカイツリー前)駅」までは一駅と予備知識を入れてある。案内(乗換)表示を見ながら歩いていると駅舎の外に出た。雨はすっかり上がっている。東京メトロに乗り換えること2分ほどで押上駅に到着した。

真っ先に4Fの入口フロアに向かう。チケットカウンターには50人ほど並んでいる。近くの係員に前売り券を見せると直ぐにカウンターに通される。並ぶことなく天望シャトル(エレベーター)に案内された。天望シャトルは4基、それぞれ春・夏・秋・冬をテーマに装飾が施されているという。因みに、私たちは「祭の空」をイメージする「秋のシャトル」で一気に天望デッキ(地上350m)へ。混雑もなく360度一望の「首都大ジオラマ」をゆっくりと楽しむことができた。デッキを一回りする頃には天候が著しく回復、顔を出し始めた青空に気を良くし天望回廊(地上450m)に上ることにした。

地上450mのジオラマはさらにグレードアップ。窓に目を凝らし、空中散策を楽しもうとした矢先、思いもしない光景が目の前に現れた。
上空からゴンドラが降りて来たのだ。あまりに突然に、あまりの迫力に思わず後ずさりしそうになった。見学者に美しい眺望を楽しんでいた
だくため、定期的にガラスの清掃を行う「東京アオゾラそうじ」と呼ばれるゴンドラだそうである。
最先端技術とは妙にアンバランスな情緒あふれる下町を散策しながら帰路についた。

toko

「秋田県民歌」との出会い

秀麗無比なる 鳥海山よ~ 初めて耳にする「秋田県民歌」。
今から遡ること8年前、2011年4月の「首都圏秋田県人会連合会」総会。そのひと月前の3月11日、今なお、鮮明に記憶に刻みこまれている東日本大震災。大地震と巨大津波が世界を震撼させ、日本列島がやり場のない悲しみに呆然としている最中(さなか)の総会。被災された方々への黙祷から始まる、重苦しい空気の中での「秋田県民歌」との出会いでした。気持ちの整理がつかぬままに総会は「県民歌」斉唱に。資料に印刷されている「秋田県民歌」は、学校で教わった「県民歌」とは違っていた。目にしたことのない歌詞に、戸惑いながらも周りに聞こえないような小さな声で口を動かした。今日になってやっと、歌詞を見ながらではあるが歌えるようになった。ただ、その歌詞については、あまり深く考えても見なかったのだが。

今年の「在京秋田県人新春交歓会」の主催者あいさつ。首都圏秋田県人会連合会・菊池会長は「秋田県民歌」の歌詞にこだわるあいさつをした。歌詞は4番まであるが、残念ながら3番以降が歌われることは滅多にないと。特に3番は、篤胤、信淵 巨人の訓(おしえ)~ というくだりがある。平田篤胤・佐藤信淵は、江戸時代に活躍した秋田が誇るべき先人である・・・「偉大な先人」への強い思い入れが語られたのです。今度、じっくりと「秋田県民歌」に向かい合ってみようか。(そんな気にさせられた) 朝あけ雲の 色はえて~ 我々が教わった歌は「県民の歌」で有り、秋田県が制定している二つの県民歌の一つという。昭和5年に制定された「秋田県民歌」は、戦後はしばらく歌われなかったといわれる。それに代わるかのように、昭和34年に「県民の歌」が発表されると、学校や行事の際などには「県民の歌」が歌われるようになり、「秋田県民歌」は県の印刷物にも載らない時期があったとの記録もある。軽快なメロディーとわかりやすい歌詞の「県民の歌」とは、対照的なメロディーと歌詞(文体)の「秋田県民歌」。この県民歌を知らない世代がどれ位いることでしょうか。現在では県内多数の中学校で、「二つの県民歌」を取り入れる「郷土教育」が成されているという。

作詞の倉田政嗣と作曲の成田為三が秋田師範学校の同級生というのも興味深い。成田為三は日本で初めての童謡、「かなりや」を発表した作曲家であり、また、今でも多くの人たちに愛唱されている「浜辺の歌」は、ふるさと秋田の海岸をイメージした作曲と言われる。

時代を超えて歌い継がれる「秋田県民歌」に郷土の絆を育む力強さを感じる。

toko

こんなことなかった?

その昔のこと。どの部落にも関所まがいのたまり場(?)があったような。いつも「いたずらガキ」が数人屯(たむろ)している。そこを通ろうものなら、決まって「どさえぐ」「ないしに」と聞かれる。何かを持っていようものなら「ほれ、なぃだ」と追い打ちをかけられる。
それだけのことであるが、とても苦手とする通り道があった。

小学校の頃・・・よくあばから、親戚の家に何か持って行くよういいつかった。「にわさ置いでおぐがら学校終わったら持ってえげ」と。出盛りの野菜などはしょっちゅうのこと。親父が山菜やきのこなど採ってくるならば、「直ぐ」持って行けとなる。祝い事の引き出物(縁起物)なども、ごく自然にお裾分けしていたように記憶をたどる。

・・・思えば、部落単位の集まりや行動が学校でもあった。夏休み(冬休みはどうだったのか?)前に行われる「部落こども会」。各教室へ部落ごとに集まる。ラジオ体操や川遊び(水浴び)など、夏休みを楽しく過ごす為のルールを決める。夏休みが終わると又部落ごとに集まり反省会を行う。猛吹雪による集団下校も記憶に残る。学校から遠い部落を優先に長靴のまま体育館に整列する。中学生を前後に小学生を守るようにしながら猛吹雪の中を下校する・・・。

さて、用事をいいつかった親戚はというと。
その苦手とする通り道の向こうにある。あばからの用事を済ますには、どうしてもそこを通らなければならない。まさか、「いやだ」とも言えず、落ち込みそうな気分のまま学校に行く。
一時(いっとき)忘れかけているが下校の頃になると現実に戻される。急いで家に帰り「持ってえげ」と言われた物を手に、関所に番人がいないことを願いながら親戚に向かう。だが、そう思い通りにはいかない。「いたずらガキ」は、示し合わせたようにしっかり屯している。

「どさえぐ」「ないしに」・・・。
いい意味での「小さな部落意識」だったのかな・・・と。今なら、思わず、笑ってしまいそうな話ではあるが。こんなことなかった?いつか、誰かに聞いてみたいと思っている。

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平成と共に30年 たくさんの笑顔に出会った

 東成瀬村村制百周年を同じく平成元年5月に「首都圏なるせ会」が、東京・上野に於いて創立総会を開催する。創立時の会員数238名、内、総会出席者は125名と記録されている。第30会総会時の会員数は224名、総会出席者は184名であった。単純に比較する事はできないが会員数は創立当時を下回る。会員数の減少は様々な要因が考えられると思う。多くのふるさと会が抱える会の高齢化はそのひとつ、「なるせ会」も例外ではない。

30年の歳月は会員の年齢構成を確実に引き上げてはいるが、今の70代、あるいはそれ以降の方々は心身ともにとても健康である。高齢化ではなく長寿と呼ぶにふさわしい。とは言っても、この先永く会存続を考えるならば・・・
この健康なシニア世代に若いエネルギーを絡めることがどうしても不可欠となる。若い層を待つのではなく積極的にアピールしていきたい。会創立30年を機に「会存続」の新たな知恵と工夫を働かせたい。

〝ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく〟
東北の玄関口として知られる上野駅に郷愁を抱く、石川啄木のあまりに有名な一首。その昔、ふるさとは遠く、盆か正月に夜行列車で帰る人が多かった。「津軽○○号」や「おが○○号」という急行列車の自由席に乗る。座ることなど考えず、乗れたら良いといった調子である。さすがに子供ができるとそうはいかなくなる。指定席を取る為にみどりの窓口に並ぶ。整理券をもらう為に午前5時頃から、まだ開かぬ窓口のシャッター前に並んだ記憶が浮かぶ。それでも、列の後(うしろ)だと指定席に敬遠されてしまうこともある。秋田新幹線「こまち」は全車両指定席、ビール片手に週刊誌でもなが
めていれば退屈せずに故郷に着く。時代の進歩はふるさとをぐっと近づけてくれたが、今でも啄木の歌は心に留まる。ふるさと訛りの恋しさは今も昔も変わりない。

平成と共に30年。思えば、たくさんの笑顔に出会った30年だった。その笑顔はいつも心を和やかにしてくれた。ふるさとの話題になると自然に輪ができる。酒を飲みながらの些細な話に大笑いする。
「酒ばかり飲んで何が楽しい」と。そんなことを聞いたことがある。そうかもしれないと思う。でも、難しい理屈はいらないような気がする。ふるさとを恋しく思う心があればそれだけで充分だと思う。ともすれば、力みがちになる「若い人たち」へのアピールを。
できる限り自然体を意識して向き合いたいと。

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