東成瀬村役場

首都圏なるせ会 2019

大傘桜と「東雲の丘(しののめのおか)」

桜の季節は人々の心をうきうきとさせる。そんな春に、浮かれそうなある日の朝刊に一本の「桜の樹」が紹介された。見事なまでに枝張りを魅せる桜。「大傘桜」という見出しのインパクトにしばらく見入ってしまった。大傘桜は、樹齢(推定)80年のソメイヨシノで、平成26年に閉校した成田市立東小学校の校庭にある。
通常ソメイヨシノは群で植えるそうだが、大傘桜は一本のみ植えられている。単木で傘型のソメイヨシノ。しかも、枝をこれほど大きく広げた樹形は非常に珍しいとのことである。これはぜひ見てみたい。大傘桜に惹かれるように週末に出かけることにした。

閉校の成田市立東小学校は成田空港に隣接する。空港方面には何度か車で行ったことがあり凡そ見当はつく。良く晴れた土曜日、ドライブ気分で成田空港を目指す。目的地には難なく到着するも、記事の影響あってか駐車場は予想どおりの満車。駐車係の対応がどことなくぎこちなく感じるのは気のせいなのか。思わぬ鑑賞客に「駆り出されたのかな」と勝手に含み笑いをしながら、さて、「どこに駐めようか」考えていると、係員が、「この先に駐車場がありますよ」と教えてくれた。飛行機と空港が見える無料駐車場があるという。300メートルほど走ると、「東雲の丘」パーキングの案内表示があった。
「東雲の丘?」、一瞬戸惑うが、場内に入るとその戸惑いが解けた。

この名称は広く地域の皆さまからも親しんでもらえる施設にしたいとの想いを込めて、成田市立東小学校の子どもたちが考えてくれました。自分の学び舎である東小学校の「東」にちなんで「東雲の丘」と名付けられました。
*東雲:夜が明けようとして東の空が明るくなることを意味します。(駐車場内の説明表示板から)

駐車場のほぼ中央にある階段から「東雲の丘」(展望台)に上ることができる。説明表示板は階段のわきにある。大傘桜と東雲の丘と成田市立東小学校。大傘桜から拡がる展開に誘われるように「東雲の丘」に上る。もともとは滑走路の「防音堤」だったという展望台、30分ほどの間に5、6機の旅客機が降りてきた。間近で、迫力ある着陸シーンをしばし楽しむことができた。

思いもしなかった楽しみが「大傘桜」に更なる期待感を膨らます。その「大傘桜」。期待を全く裏切らない「美しい樹形」に魅せられた。成田空港に近く、開港に伴う移転や少子化の影響もあり閉校を余儀なくされた小学校。子供たちの声が聞こえなくなっても、季節になると花を咲かせる。そう思うと、妙に、寂しさを感じる風景でもあった。

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首都一望!! 東京スカイツリー

JR京葉線の車窓から東京スカイツリーが良く見える。なかでも新浦安から舞浜にかけての眺めは、そのほぼ全形が楽しめる。高さ634mは、展望台のある電波塔としては世界一と言う。一度は上って見たい。車窓の景色はその奇心を充分過ぎるほど掻きたてる。

ある日、娘夫婦が「スカイツリーの入場券があるから行ってきたら」と。自分たちはもう行ったから、「たまには二人で出かけたら」と言う。気持ちを素直に受けとり混雑の少ない平日に出かけることにした。
当日、通勤ラッシュを避けるように10時過ぎに自宅を出る。あいにくの小雨にやや気分が滅入る。天気予報は雨から曇りと回復の兆しだが、当初からあてにはしていない。大荒れでもない限り、日にちの変更は考えに入れず、とにかく未知の高さに挑むと決め込んでいた。

いつもなら東京行きは京葉線となるところだが、千葉方面からスカイツリーへのアクセスはJR錦糸町駅が最良らしい。ならばと、千葉駅からJR総武快速に乗る。平日の昼にしては「少し混んでいるかな」と車内を見回していると、「春休みだからね」と妻が小声で言う。
西船橋を過ぎる頃からスカイツリーが見えてくる。錦糸町駅から東京メトロに乗り換え「押上(スカイツリー前)駅」までは一駅と予備知識を入れてある。案内(乗換)表示を見ながら歩いていると駅舎の外に出た。雨はすっかり上がっている。東京メトロに乗り換えること2分ほどで押上駅に到着した。

真っ先に4Fの入口フロアに向かう。チケットカウンターには50人ほど並んでいる。近くの係員に前売り券を見せると直ぐにカウンターに通される。並ぶことなく天望シャトル(エレベーター)に案内された。天望シャトルは4基、それぞれ春・夏・秋・冬をテーマに装飾が施されているという。因みに、私たちは「祭の空」をイメージする「秋のシャトル」で一気に天望デッキ(地上350m)へ。混雑もなく360度一望の「首都大ジオラマ」をゆっくりと楽しむことができた。デッキを一回りする頃には天候が著しく回復、顔を出し始めた青空に気を良くし天望回廊(地上450m)に上ることにした。

地上450mのジオラマはさらにグレードアップ。窓に目を凝らし、空中散策を楽しもうとした矢先、思いもしない光景が目の前に現れた。
上空からゴンドラが降りて来たのだ。あまりに突然に、あまりの迫力に思わず後ずさりしそうになった。見学者に美しい眺望を楽しんでいた
だくため、定期的にガラスの清掃を行う「東京アオゾラそうじ」と呼ばれるゴンドラだそうである。
最先端技術とは妙にアンバランスな情緒あふれる下町を散策しながら帰路についた。

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「秋田県民歌」との出会い

秀麗無比なる 鳥海山よ~ 初めて耳にする「秋田県民歌」。
今から遡ること8年前、2011年4月の「首都圏秋田県人会連合会」総会。そのひと月前の3月11日、今なお、鮮明に記憶に刻みこまれている東日本大震災。大地震と巨大津波が世界を震撼させ、日本列島がやり場のない悲しみに呆然としている最中(さなか)の総会。被災された方々への黙祷から始まる、重苦しい空気の中での「秋田県民歌」との出会いでした。気持ちの整理がつかぬままに総会は「県民歌」斉唱に。資料に印刷されている「秋田県民歌」は、学校で教わった「県民歌」とは違っていた。目にしたことのない歌詞に、戸惑いながらも周りに聞こえないような小さな声で口を動かした。今日になってやっと、歌詞を見ながらではあるが歌えるようになった。ただ、その歌詞については、あまり深く考えても見なかったのだが。

今年の「在京秋田県人新春交歓会」の主催者あいさつ。首都圏秋田県人会連合会・菊池会長は「秋田県民歌」の歌詞にこだわるあいさつをした。歌詞は4番まであるが、残念ながら3番以降が歌われることは滅多にないと。特に3番は、篤胤、信淵 巨人の訓(おしえ)~ というくだりがある。平田篤胤・佐藤信淵は、江戸時代に活躍した秋田が誇るべき先人である・・・「偉大な先人」への強い思い入れが語られたのです。今度、じっくりと「秋田県民歌」に向かい合ってみようか。(そんな気にさせられた) 朝あけ雲の 色はえて~ 我々が教わった歌は「県民の歌」で有り、秋田県が制定している二つの県民歌の一つという。昭和5年に制定された「秋田県民歌」は、戦後はしばらく歌われなかったといわれる。それに代わるかのように、昭和34年に「県民の歌」が発表されると、学校や行事の際などには「県民の歌」が歌われるようになり、「秋田県民歌」は県の印刷物にも載らない時期があったとの記録もある。軽快なメロディーとわかりやすい歌詞の「県民の歌」とは、対照的なメロディーと歌詞(文体)の「秋田県民歌」。この県民歌を知らない世代がどれ位いることでしょうか。現在では県内多数の中学校で、「二つの県民歌」を取り入れる「郷土教育」が成されているという。

作詞の倉田政嗣と作曲の成田為三が秋田師範学校の同級生というのも興味深い。成田為三は日本で初めての童謡、「かなりや」を発表した作曲家であり、また、今でも多くの人たちに愛唱されている「浜辺の歌」は、ふるさと秋田の海岸をイメージした作曲と言われる。

時代を超えて歌い継がれる「秋田県民歌」に郷土の絆を育む力強さを感じる。

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こんなことなかった?

その昔のこと。どの部落にも関所まがいのたまり場(?)があったような。いつも「いたずらガキ」が数人屯(たむろ)している。そこを通ろうものなら、決まって「どさえぐ」「ないしに」と聞かれる。何かを持っていようものなら「ほれ、なぃだ」と追い打ちをかけられる。
それだけのことであるが、とても苦手とする通り道があった。

小学校の頃・・・よくあばから、親戚の家に何か持って行くよういいつかった。「にわさ置いでおぐがら学校終わったら持ってえげ」と。出盛りの野菜などはしょっちゅうのこと。親父が山菜やきのこなど採ってくるならば、「直ぐ」持って行けとなる。祝い事の引き出物(縁起物)なども、ごく自然にお裾分けしていたように記憶をたどる。

・・・思えば、部落単位の集まりや行動が学校でもあった。夏休み(冬休みはどうだったのか?)前に行われる「部落こども会」。各教室へ部落ごとに集まる。ラジオ体操や川遊び(水浴び)など、夏休みを楽しく過ごす為のルールを決める。夏休みが終わると又部落ごとに集まり反省会を行う。猛吹雪による集団下校も記憶に残る。学校から遠い部落を優先に長靴のまま体育館に整列する。中学生を前後に小学生を守るようにしながら猛吹雪の中を下校する・・・。

さて、用事をいいつかった親戚はというと。
その苦手とする通り道の向こうにある。あばからの用事を済ますには、どうしてもそこを通らなければならない。まさか、「いやだ」とも言えず、落ち込みそうな気分のまま学校に行く。
一時(いっとき)忘れかけているが下校の頃になると現実に戻される。急いで家に帰り「持ってえげ」と言われた物を手に、関所に番人がいないことを願いながら親戚に向かう。だが、そう思い通りにはいかない。「いたずらガキ」は、示し合わせたようにしっかり屯している。

「どさえぐ」「ないしに」・・・。
いい意味での「小さな部落意識」だったのかな・・・と。今なら、思わず、笑ってしまいそうな話ではあるが。こんなことなかった?いつか、誰かに聞いてみたいと思っている。

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平成と共に30年 たくさんの笑顔に出会った

 東成瀬村村制百周年を同じく平成元年5月に「首都圏なるせ会」が、東京・上野に於いて創立総会を開催する。創立時の会員数238名、内、総会出席者は125名と記録されている。第30会総会時の会員数は224名、総会出席者は184名であった。単純に比較する事はできないが会員数は創立当時を下回る。会員数の減少は様々な要因が考えられると思う。多くのふるさと会が抱える会の高齢化はそのひとつ、「なるせ会」も例外ではない。

30年の歳月は会員の年齢構成を確実に引き上げてはいるが、今の70代、あるいはそれ以降の方々は心身ともにとても健康である。高齢化ではなく長寿と呼ぶにふさわしい。とは言っても、この先永く会存続を考えるならば・・・
この健康なシニア世代に若いエネルギーを絡めることがどうしても不可欠となる。若い層を待つのではなく積極的にアピールしていきたい。会創立30年を機に「会存続」の新たな知恵と工夫を働かせたい。

〝ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく〟
東北の玄関口として知られる上野駅に郷愁を抱く、石川啄木のあまりに有名な一首。その昔、ふるさとは遠く、盆か正月に夜行列車で帰る人が多かった。「津軽○○号」や「おが○○号」という急行列車の自由席に乗る。座ることなど考えず、乗れたら良いといった調子である。さすがに子供ができるとそうはいかなくなる。指定席を取る為にみどりの窓口に並ぶ。整理券をもらう為に午前5時頃から、まだ開かぬ窓口のシャッター前に並んだ記憶が浮かぶ。それでも、列の後(うしろ)だと指定席に敬遠されてしまうこともある。秋田新幹線「こまち」は全車両指定席、ビール片手に週刊誌でもなが
めていれば退屈せずに故郷に着く。時代の進歩はふるさとをぐっと近づけてくれたが、今でも啄木の歌は心に留まる。ふるさと訛りの恋しさは今も昔も変わりない。

平成と共に30年。思えば、たくさんの笑顔に出会った30年だった。その笑顔はいつも心を和やかにしてくれた。ふるさとの話題になると自然に輪ができる。酒を飲みながらの些細な話に大笑いする。
「酒ばかり飲んで何が楽しい」と。そんなことを聞いたことがある。そうかもしれないと思う。でも、難しい理屈はいらないような気がする。ふるさとを恋しく思う心があればそれだけで充分だと思う。ともすれば、力みがちになる「若い人たち」へのアピールを。
できる限り自然体を意識して向き合いたいと。

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