東成瀬村役場

首都圏なるせ会 2020 記事一覧

「災害協力井戸」とは・・川沿いの道で見つけた立札看板・・

災害協力井戸とは、市民や企業の方々が所有する井戸を事前に登録してもらい、災害時に水道施設が復旧するまでの間、ご近所の方々に開放していただき、生活用水を確保しようとするものです。災害時には井戸水の水質に変化が生じることもあるため、飲用ではなく、あくまで生活用水としての使用を考えています。

<千葉県・市原市HPから>
昨年、千葉県は、ひと月余りの間に2度の大きな台風に襲われた。気象庁は、9月の台風15号、10月の台風19号に、それぞれ「令和元年房総半島台風」、「令和元年東日本台風」と命名した。
台風への命名は、1977年に沖永良部島を直撃した「沖永良部台風」以来、43年ぶりという。命名された二つ台風は、千葉県を中心に広範囲かつ長期に及ぶ停電や断水、膨大な数の家屋損壊、河川の氾濫を引き起こした。

台風から10日ほど経った頃だったろうか。河川氾濫にこそ至らなかったが、氾濫危険水位(警戒レベル4)を超えたとする川沿いの道(市原市)を歩いた。のどかなで水位の低いこの川が氾濫?
普段の様子からは、想像すらできそうもない川を眺めながら歩いていると、ふと、立札看板が目についた。近寄って見ると「災害協力井戸」の手書き文字。その脇にある塩化ビニール管から水が流れ出ている。台風災害の後ゆえなのか、やけに「気にかかる文言」にしばらく足止めをさせられていると、地元の方らしい人が近づいてくる。ここは地元の方に聞くのが1番とばかり尋ねたが、要領を得る答えは返ってこなかった。

すっかり忘れかけていた「災害協力井戸」。新型コロナウイルスが、再び、気にかけるきっかけをくれた。例年行われる「○○川の鯉のぼり」が、国のイベント等自粛要請から今年は中止という。思い出したように、カメラをもって家を出た。

かつては多くの家に見られた「井戸」も、近年はそうそう見られないほどに減少しているとのこ
と。地震や台風など、自然災害が多発している昨今、非常時の生活用水確保から「防災井戸」が再び注目されているという。しかし、「防災井戸」はその名のとおり、災害時の緊急用を目的と
して掘られる井戸のこと。学校、幼稚園・保育園や医療機関が積極的に導入を図っている。「災害防災井戸」は先に述べたように、新たに掘るのではなく、既存の井戸を登録。まさに、災害時に井戸の持ち主に協力をお願いするという制度。近年、多くの自治体が「この制度」を導入しているそうである。

50年以上も昔の話。増田の親戚に井戸(手押しポンプ)があった。従兄弟(いとこ)のまねをしながら動かしてみるが水は一向に上がってこない。ぎったんばったんと、ぎこちない音を鳴らした遠き故郷を懐かしむ。

toko

世界一の真円度を求めて・・モノづくりにロマンを感じ・・

小生60年を超える工場での生活。私にとって工場は遊園地である。

昭和18年、利根鉱山(群馬県利根郡白沢村:現沼田市)の鉱山長は下田の伊勢谷喜一郎氏でした。下田から20人ほどが社員として働いていた。利根鉱山から算出された磁鉄鉱は、矢作製鉄(名古屋市)で製錬、ゼロ戦の部品などが作られていた。その頃、小学生だった小生は、ベルト掛け旋盤でコマ作りなどして遊んだ。

昭和26年、東京葛飾の大東ディーゼル精器に見習い機械工として入社、ゼロ戦づくりに携わった技術者から、精密加工技術を徹底的に仕込まれた。夜は、三角関数や歯車の計算などの勉強。ネジ切りなどが合った時には、それはうれしく、数学はとても楽しいものであった。大東での8年間は、モノづくり人生の基礎を身につけた時期であったといえる。

昭和34年、スイスタイプのNC自動旋盤メーカー・野村精機に入社。ここで、高品位、高精度、精密研削など質の高い、ヨーロッパの工作機械メーカーを視察する機会に恵まれる。ドイツのトラブ・インデックス、イギリスのジンスシプマン、スイスのハウザー・ライスフアー・マーグ・スチューダー各社は100年を超える歴史がある。それらのメーカーは材料に3年間のシーズニング(慣らし)を施す
「哲学的なモノづくり」をしていた。
昭和56年、野村精機社長が設立した「ヤノック」に技術開発部長として入社。モノづくりの原点は現場にあると。しかるに、休日であっても工場で過ごすことが多く、工場は遊園地のようであった。
ヤノックで、さらに、そのモノづくりのノウハウを着実に身につけることができた。

ヤノックでのモノづくりとは? それは、世界一の真円度であり、究極の精度を求める「超硬精密センタ」の追究である。超硬センタは主に円筒研削盤で使われる、高精度の工作物に必要とされるデッドセンタのことである。デッドセンタの精度は工作物の仕上がりに大きな影響を及ぼす。なぜ、究極の精度を求めるのかというと、それは「エコ」に直結するからである。自動車エンジンやシャフ
ト、家電のモーターから新幹線の車輪等々。真円度の精度、耐久性の高さが評価される所以は、我々のような町工場が「モノづくり技術」を支えているからだと自負する。

野村精機やヤノックでは、動作と時間、振動や精密測定等の研究に努力を重ねた。昭和26年から36年にかけ、機械技術にアイデアを積極的に提案。円筒研削盤一級技能士、普通旋盤一級技能士のほか、東京都技能検定委員と職業訓練機械科指導員などの資格取得に結びついた。世界一の真円度を追究する「超硬精密センタ」。同社では、高精度グラインダーはスイスのスチューダー社、真円度はイギリスのテーラーホブソン社、ダイヤルゲージはカールマール社のミリメスを採用と、その製造工程に拘る。野村精機及びヤノックでの小生の提案プロポジションはすべて採用された。超硬精密センタの真円度世界一を求めて。飽くなき追究こそ「モノづくり」のロマンと。    

伊勢谷 孝男

「在京秋田県人新春交換会」から
秀麗無比なる 鳥海山よ・・・・・至純の郷土と 択かん秋田

 今年も高らかに「県民歌」斉唱。令和2年「在京秋田県人新春交歓会」が1月中旬に、東京・西新宿「ハイアットリージェンシー東京」に於いて開催された。
「県民歌の歌詞は4番まであるが、残念ながら3番以降が歌われることは滅多にない」と。昨年の新春交換会で、首都圏秋田県人会連合会・菊池会長が「県民歌」に思いを寄せる主催者挨拶をした。その思いを汲むかのような今年の県民歌。指揮者・佐藤菊夫さん(秋田市出身)の心遣いを感じるリードで1番と4番を斉唱した。

さて「在京秋田県人新春交換会」は、秋田県と首都圏秋田県人会連合会の共同主催である。秋田県人会連合会が誇る芸能大会は、民謡・歌謡・舞踊の3部門の日々研鑽を競う。なかでも民謡は秋田民謡に限定している。秋田伝統文化を伝える位置づけを明確に、半世紀以上にも及ぶ行事である。
新春交換会は、その芸能大会・民謡優勝者の謡(うたい)をオープニングに、県民歌斉唱、主催者挨拶、国会議員・市町村長紹介と進む。今年の参加者は、首都圏各地区県人会・各市町村「ふるさと会」、県出身の産業経済人、文化人と秋田ゆかりの方々など約340名。乾杯をきっかけに会場は一気にふるさとモード全開となる。

秋田県は新春交換会2日前、プロ野球東京ヤクルトスワローズ・石山泰稚投手を秋田県スポーツ大使に任命すると発表した。
そのサプライズが新春交歓会で披露された。佐竹知事から石山投手に「秋田県スポーツ大使任命証」が手渡された。現スポーツ大使の石川雅規投手は石山投手のチームメイト。格闘家の桜庭和志選手と秋田県のスポーツ大使は3名になるそうである。

サプライズはまだあった。大相撲の押尾川親方(元関脇豪風)が佐竹知事と並んで登壇した。小柄な力士とは承知していた
が・・。昨年初場所限りで引退した元関脇豪風関。その引退相撲と断髪式が2月1日に両国国技館で行われると。力士が大型化する角界にあって、恵まれているとはいえない小柄な身体で、県出身力士最多の幕内通算590勝は、元大関清国関の勝ち星を超えるという。間近に見る元関脇豪風関は、その小柄なイメージを払拭するオーラを感じさせてくれた。

ふるさとに深い関心をもつ。ふるさとの発展を常に気にかける。それぞれが様々な関わりをもってふるさとに向き合えば良いと思う。新春交歓会には、終始、ふるさとの風が流れていた。

toko

仙北道(みち)を話題に ・・県境を越える懇親忘年会・・

在京いさわ会(岩手県胆沢郡胆沢町:現奥州市)と交流をするようになりもう20年近くになる。胆沢町はいわゆる県境
を挟む燐町ではあるが、県境に横たわる深い奥羽山脈が、隣町の概念すら意識させなかったのだろうか。いしゃが(胆沢)と言
えば、きのこや、たけのこを採る山であり、車もない時代、とてつもなく遠い町は、考えることすら思い浮かばなかったかもしれない。東北道と新幹線が、遠かった隣町をぐっと近づける。ふるさと交流のきっかけは「焼石岳の山開き」と聞く。交流当初の「胆沢町ふるさと会」は、まだ、奥州市合併前であり「在京胆沢町友会」と呼んでいた。夏場の帰郷は「胆沢町」を通る。それまで漫然と走っていた「いさわ路」がとてもやさしく感じられるようになった。

昨年のいさわ会総会。首都圏ふるさと湯沢会と、在京金ケ崎人会(胆沢郡金ケ崎町)のみなさんと同じテーブルにご一緒した。
いさわ会総会は、近隣市町村の「ふるさと会」の方々が多く出席する。近隣ふるさと会の方々とは、都度、楽しく交流をさせていただいている。ただ、その交流は年一度に留まっている。ところが今回はどうしたことか。ふるさと談義に花が咲くと言うのか、テーブルは終始ハイテンションに。当然の如く、互いの総会への出席の約束をしていた。しかし、それでは、少しさびしすぎるとばかりに、近いうちに「一杯どうですか」とすっかり意気投合。金ケ崎町は、胆沢郡で唯一合併しなかった町。水沢、江刺の両市と、胆沢郡の2町1村が合併した奥州市と、北上市に挟まれながらも合併しなかった金ケ崎町。その環境や条件に違いはあれど、ふるさと東成瀬村が重なる。

さて有言実行と。
「一杯どうですか」の第1回交流会を皮切りに、在京金ケ崎人会総会、なるせ会総会と約束を全う。
「在京いさわ会」と「首都圏ふるさと湯沢会」が加わり、県境を超える交流会に発展。互いの歴史文化を学び、互いのふるさとを尊重し会う「楽しく集える会」にしたいと。

今から約1200年前、坂上田村麻呂が、胆沢城(奥州市水沢)を築造、雄勝城(湯沢市)に通ずる最短の道を造るため、奥州市胆沢若柳下嵐江(おろせ)から、東成瀬村手倉(御番所跡)までの6里(24キロ)の道を開いた。それが「仙北街道」である。
金ケ崎町には、胆沢城と関係の深い安倍一族の三男、宗任(むねとう)の館「鳥海柵」がある。「前九年の役」の本拠となった館である。東成瀬村を含む四つの地域が、すべて「仙北街道」に関係する。
令和元年10月、文化庁の「歴史の道百選」に選ばれた仙北街道。様々な歴史の偉人が通ったと語られる古道。なかでも、源義経が弁慶とともに平泉に逃れるときにおそらく通ったであろうと。あの牛若丸が・・・。
まさに、〝古浪漫(いにしえろまん)に想いを馳せる〟であろう。

令和元年の師走。「仙北道」を話題に忘年会を催し、交流会を「仙北街道を語る会」とネーミング。共有するふるさとの歴史を語り合いたい。

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